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在米ジャーナリスト。オレンジ・カウンティ・レジスター紙で地域行政や調査報道を担当。アメリカで数少ない日本育ちの報道記者として、他にも現地の司法や経済、スポーツなど幅広く取材。カリフォルニア新聞経営者協会の経済報道賞、オレンジカウンティ記者団協会の調査報道賞などを受賞。ジャーナリズムコンテストの審査員を務め、アメリカの大学生や高校生にライティングやジャーナリズムの指導も行う。

2009年8月18日

あの人は今:トミー・クルーズ

トミー・クルーズという名前を覚えているだろうか。1981年、「サモアの怪人」トニー・ソレイタ(故人)や江夏豊とともに、日本ハムを優勝に導いた選手である。

日本のプロ野球で6年間を過ごし、通算打率.310。1984年には最多二塁打を記録し、ベストナインにも選ばれた。

そのクルーズが、今年、ハイデザート・マーベリックス(マリナーズ傘下1A)の打撃コーチを務めている。シーズン初盤、クラブハウスで取材をしていたら、お辞儀をしてくる中年男性がいて、からかわれているのかと思ったらクルーズだった。

その後、彼の日本での成績を探してきてくれないかと頼まれ、日本版Wikipedia記事の英訳と一緒に渡した。せっかくなので、連載中のコラムにも登場してもらった。

メジャーリーグでは7試合出場にとどまり、米国での最終年にはミネソタ・ツインズのキャンプにも参加していたが、メジャー昇格の望みが断たれたため、日本に活躍の場所を移す決断を下した。

日本での一番の思い出は、1984年に阪急のブーマーと首位打者争いをしたことだと言う。「(シーズン終盤)僕が試合に出ているのに、彼はベンチに座って試合に出場しなかった。彼は僕に失敗してほしかったんだ。僕は彼に電話して、『なにやってるんだ。首位打者争いをしているのにずるいじゃないか』と言ってやったよ」。クルーズは打率.348で2位に終わり、ブーマーは外国人選手初となる三冠王を獲得した。

クルーズは成績だけでなく、その闘争心あふれるプレーでもファンを魅了した。ある試合では、顔面にデッドボールをくらい、救急車で病院に搬送されたにも関わらず、次の日に猛打賞を記録。Wikipediaには7針縫ったと記載されているが、クルーズ本人は29針だと話す。「唇が真っ二つに裂けたんだ。でも僕はプレーするのが好きなんだ。ベンチに座るなんてまっぴら」と笑いながら言う。

1985年シーズンにも打率.321を残したが、膝の故障がたたり、同年オフにチームを退団した。Wikipediaには契約でもめて退団とあるが、クルーズいわく、チームが契約延長をのぞまなかっただけで、遺恨は一切ないという。「日本で過ごした時間の全てが好きだった。私の妻も同じだよ。日本人は僕らにとてもよくしてくれた。とても教養のある人たちばかりだった」。

日ハム退団を機に選手を引退したクルーズは、祖国プエルトリコに戻り、少年野球のコーチを務めた。1991年にはマリナーズにコーチとして雇われ、現在に至っている。

今年のマーベリックスは、好調な打撃に支えられ、カリフォルニアリーグ南地区の前半戦優勝を果たし、後半も優勝争いに加わっている。連続安打記録で全米を湧かせたジェイミー・マクオーウェン外野手は、クルーズのアドバイスでスタンスを広げたことが成功につながったと話す。また、クルーズは素振りやトスバッティングなど、日本で学んだ練習方法を指導に取り入れている。

58歳になった今でも、炎天下のハイデザートで一時間近く打撃投手を務めるクルーズ。打者がホームランを打つたびに、大げさなジェスチャーと大声で褒めたたえ、空振りをした時は、他の選手と一緒にゲハゲハ笑う。ボクは彼の現役時代を見たことはないが、きっとガッツあふれる姿は今と変わらなかったことだろう。

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