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在米ジャーナリスト。オレンジ・カウンティ・レジスター紙で地域行政や調査報道を担当。アメリカで数少ない日本育ちの報道記者として、他にも現地の司法や経済、スポーツなど幅広く取材。住宅バブル崩壊が南カリフォルニアに与えた影響を調査したシリーズ記事で、カリフォルニア新聞経営者協会の経済報道賞を受賞。

2011年9月13日

9・11を振り返って

米同時多発テロ特集の一部として、新聞に、「海の向こうの9・11」というコラムを書いたので、訳を載せる。



ボクが夜遅く大学から帰宅するなり、父が玄関まですごい勢いでやってきて、ニュースを見ろと言った。テレビをつけると、地球の反対側で二機の飛行機が高層ビルに突入していた。ちょうど10年前のことである。

「信じられないような映像をご覧いただいていますけれど、これは現実の映像です」とニューヨークにいる日本人記者が説明した。

大手テレビ局は、ニューヨークとワシントンからの生映像を流し、CMを全面休止して終夜放送を行った。

次の日、学生たちの間では、テレビで見た悲惨な映像の話題で持ち切りだった。同時多発テロで亡くなった24人の日本人に、大学の卒業生が含まれていたことは後で知った。あの日、命を落としたおよそ三千人の犠牲者のうち、約370人が外国人である。

ボクは、なぜ9・11(米国では、9月11日というと、あのテロ事件を指すようになった)が起きたのか、答えが欲しかった。あの日は、ボクが大学でアメリカ研究を専攻する一つの要因となった。

祖父母を含め、多くの日本人が米国に旅行することを恐れていた時期、ボクはデューク大学に留学することを決めた。もっとアメリカという国について知りたかったからだ。

イラク戦争が始まった数ヶ月後に、ボクはデュークに向けて出発した。片道航空券しか持っていなかったからだろう、止まった空港の全てで、運輸保安局の職員から徹底的な身体検査と手荷物チェックを受けた。他の乗客が横を通り過ぎていくので、恥ずかしかった。

米空軍の予備役将校訓練課程に所属する田舎町出身のルームメイトと暮らし、アメリカ人の大学生たちと歴史や政治について語り合うことで、アメリカという国が、9・11によって、日本人には想像できない程の傷を負わされたのだと思い知らされた。

その年のクリスマス休暇はニューヨークで過ごした。どうしてもニューイングランドではなく、ニューヨークに行くのだと言い張った当時の彼女に感謝である。テロから2年が経ったグラウンドゼロは、空き地のままだった。

大晦日には、凍える寒さのタイムズスクエアで、7時間も立ち続けてカウントダウンを待つはめになったが、それだけの価値はあった。周りの人たちと震えながら文句を言っているうちに、世界中に友達ができた。

カウントダウンの直前、何十万もの多様な人々が「God Bless the USA」という愛国歌を熱唱し、テロから立ち直ろうとする街に響き渡った。ボクはニューヨークという街に恋をしてしまった。

                                     

再び米国に戻ってきて、6年が経つ。

日本の食べ物や公共交通機関が恋しくなることはあるし、日本にいれば病気になっても医療費の心配をする必要もない(米国の医療費は高くてかなわない)。日本にいる家族や友人にもなかなか会うことができない。

それでもボクはアメリカに住んで仕事をするのが好きだ。ボクにとって魅力なのは、この国に住む人たちが、お互いをありのままの個人として受け入れようとする寛容さである。

数ヶ月前にニューヨークを訪れた時、そこら中でゲイや人種間カップルが手をつないで歩いている光景が微笑ましかった。

一つ屋根の下、ボクがご飯に臭い納豆を食べている横で、ルームメイトがハンバーガーとホットドッグを焼いて、一緒にヤンキースの試合を見るなんてことも当たり前。

さらには、ボクのように英語を第二言語として学んだ者が、プロの物書きになるチャンスを与えられるのだ。

真珠湾攻撃で強制収容所に送られた日系市民が、9・11の後、ムスリム系市民を支持したことを聞いて、誇りを感じられずにはいられなかった。未だに偏見と戦わなければならないムスリム系アメリカ人が、自由こそが彼らをアメリカ人にするのだとボクに言った。

合衆国憲法に記された理念こそが、世界の隅々から人々を引き集め、人々をテロの恐怖から解放するのである。

この日曜日、ボクはおそらく国旗を掲げはしないだろうが、自分にとって9月11日がどんな意味を持つのか、静かに振り返ってみようと思う。

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